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2026.07.23

せとうち日記7月22日「道徳の正解ってなんだろう」

  • #せとうち

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こんにちは、博士課程後期学生の竹内です。西日本に続き、東日本でもぞくぞくと梅雨明けし、暑くなってきました。小中学校は夏休み。朝からラジオ体操の声が聞こえます。大学はもう少し、授業期間が続きます。

本日から「境界線の学校史」第II部「どんな教育をするか」に入り、5章「道徳教育に抗する/としての生活指導-普通教育の境界変動と宮坂哲文」(神代健彦)を読んで意見交換をしました。読んでいる段階から、話が盛り上がりそうだと思っていましたが、実際の道徳や道徳の手法、実習で道徳をやった人(続出)からの道徳教育の授業をする視点まで、込み入った話ができてとても面白かったです。

道徳の授業は戦前の「修身」が、価値観の上からの押し付けであったことを反省し、戦後は紆余曲折を経て現在の特別の教科道徳になりました。本文で参照されている宮坂は押し付けの道徳に反対し、生活指導としての道徳を行うことを目指しました。そこには「人間であることにおいて共通なねがい」(p.160)があったと述べており、形だけの飼い慣らされた道徳観で授業をすることを批判し、教科や学校生活のあらゆる場面で、道徳は育まれるべきものという思いがありました。

私たちも道徳で扱われる「家族愛」「平和」「平等」「共同体への参加」「他者への感謝」と言ったテーマについて話し合いましたが、衝撃的だったのは現行の道徳には「個人の尊厳」については、テーマになっていないことでした。小学校低学年の命の大切さを考える教材でも、最終的には親への感謝という形になっていたという実習体験が語られ、「誰にも代えられない大切な私」というものが、道徳の教材になっていないのは驚きました。

道徳的な問題については、時に答えが出ないことがあります。ある地域や時代では道徳的と判断されても、他の文脈では非道徳的とみなされることもあります。そんな時、子どもたちを前にした教師がどのように主体的に考える姿を見せられるかという「教師の自己開示」が鍵ではないかという話をして締めくくりました。

教科との境界線に置かれる道徳は、道徳の時間だけにとらわれない人としての生き方、また教師の姿勢を問いかけていると思いました。

この記事を書いた人

学習開発学 教育学系 院生

学習開発学 教育学系 院生

学習開発学領域 教育学系の大学院生で執筆しています!